サルバドール・ダリは、スペインが生んだ20世紀を代表する最も多才な画家であるといえます。
6歳の時に初めて、油彩で風景画を描いてから70歳代後半まで絵画はもちろんのこと彫刻、版画、舞台装置や衣装のデザイン、映画制作と実に幅広い表現活動をしています。
ダリの絵といえば、美術の教科書等で“柔らかく描かれた時計”をみたことを思い出す人も多いと思います。
探究心の強いダリは、印象派、点描派、キュビスムなどの先輩の作風を学び、その影響をうけました。
1930年代は、パリを中心にシュルレアリスム(超現実主義)という芸術運動が盛んであり、ダリもその運動に加わります。
夢と心の奥にひそむ欲望をあばき出すことを絵画の主な目的として幻想的で非合理的な絵画を多く制作するようになりますが、“柔らかい時計”はその頃の代表的な作品なのです。
ダリの、この旺盛な創作活動を陰で支えたのが、妻のガラでした。
ガラをモデルにした作品もたくさんあります。ダリは、「ガラ以外は、全て敵である。」、「私の全ての絵画はガラの血で描かれた。」と述べているほどの結びつきでした。
その後もヨーロッパ各地、そしてアメリカでの大回顧展の成功、美術館の完成と名声を高めていきます。
「天才を演じきると天才になれる。」といったダリの言葉が多岐にわたる表現活動と彼の生きざまを表しているといえます。
左上:《サルバドール・ダリ》1954 右下:《ダリ・アトミクス》1948
Photo by Philippe Halsman © The Philippe Halsman Archive
※《 》は、当館所蔵作品
年代 | 年齢 | 事柄 |
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1904 | - | 5月11日、スペインのカタルーニャ東北部フィゲラスに生まれる。 父は公証人。 |
1908 | 4歳 | 妹アナ・マリア生まれる。 |
1910 | 6歳 | 最初の油絵(風景画)を描く。 |
1914 | 10歳 | 聖マリア修道会学校にすすむ。 ラモン・ピチョートの芸術的感化を受け、才能を伸ばす。 |
1917 | 13歳 | 版画学校教師フアン・ヌーニネスの指導を受ける。 印象派、点描派の影響を受ける。 |
1918 | 14歳 | フィゲラスの市立劇場に作品が展示される。 マリアノ・フォルテュニーの代表作『テトゥアンの戦』に惹かれる。 |
1921 | 17歳 | マドリード王立美術学校に入学。 ロルカ、ブニュエルと親交を結ぶ。母フェリーパ死亡。 |
1922 | 18歳 | 10月、バルセロナのダルマウ画廊での学生グループ展に出品。 《キャバレーの情景》を制作。 |
1923 | 19歳 | イタリアの画家キリコなどの影響を受ける。 |
1924 | 20歳 | 学生を扇動した理由で1年間の停学処分。5月には反政府活動の疑いで、フィゲラスとヘロナで短期間投獄される。 |
1925 | 21歳 | 復学。11月、バルセロナのダルマウ画廊で最初の個展を開く。 この頃から、フェルメールの写実主義、ピカソの新古典主義やキュビスムなどの影響のもとに制作。《パンとクルミ》を制作。 |
1926 | 22歳 | ピカソに会う。10月、美術史の答案提出を拒み、放校処分。 ダルマウ画廊で2度目の個展を開く。 |
1927 | 23歳 | フロイトの精神分析学を読む。パリのシュルレアリスムの影響もみられる。 |
1928 | 24歳 | 10月からピッツバーグで国際美術展が開催され『パン籠』、《アナ・マリア》などを出品。 翌年にかけパリに滞在。 ミロを通じシュルレアリスム・グループの詩人や画家たちに紹介される。 |
1929 | 25歳 | 夏、カダケスのダリのもとへポール・エリュアールとガラ夫妻らが訪問し、ダリとガラは恋に落ち、生涯の伴侶となる。 ブニュエルと共同で前衛映画『アンダルシアの犬』を制作し、パリで上映。 ゴーマン画廊でパリでの初個展開催。 ブルトンがカタログに序文を書き正式にシュルレアリスムの一員となる。 |
1930 | 26歳 | ブニュエルとの共同制作映画『黄金時代』が上映禁止となる。 スペインの建築家ガウディやオランダのフェルメールなどに影響を受け、「二重像(ダブルイメージ)」を描き始める。 |
1931 | 27歳 | 『記憶の固執』など、柔らかい時計の現れる作品を描き始める。 |
1932 | 28歳 | ミレーの『晩鐘』をテーマとする一連の作品を描く。 《象徴的機能をもつシュルレアリスム的オブジェ》を制作。 |
1933 | 29歳 | ニューヨークでアメリカ最初の個展。 |
1934 | 30歳 | ロンドンでの初の個展を開催。シュルレアリスムグループから除名される。ガラとともに初めてアメリカを訪問する。 |
1936 | 32歳 | 《抽き出しのあるミロのヴィーナス》を制作。 7月、スペイン内乱勃発。ロンドンのシュルレアリスム国際展で、潜水服で講演を行う。 |
1937 | 33歳 | 内乱を避けてイタリアに旅行する。日本の美術雑誌‐「みづゑ」で作品8点が紹介される。 |
1938 | 34歳 | ロンドンでフロイトに会う。 |
1939 | 35歳 | バレエなどの台本を書き、衣装および舞台装置をデザインする。 |
1941 | 37歳 | ニューヨーク近代美術館で初の大回顧展。 |
1942 | 38歳 | 自伝『サルバドール・ダリの秘められた生涯』出版。 |
1944 | 40歳 | 最初の小説『隠された顔』出版。 |
1945 | 41歳 | 広島に原爆投下のニュースに衝撃をうける。 |
1946 | 42歳 | セルバンテスの「ドン・キホーテ」のために挿絵を描く。 |
1947 | 43歳 | ビキニの原水爆実験に関連を持つ《ビキニの三つのスフィンクス》を制作。 |
1948 | 44歳 | アメリカからポルト・リガートに帰り歓迎を受ける。 古典主義的、または、宗教的作品を制作し始める。 |
1949 | 45歳 | ガラをモデルに『ポルト・リガートの聖母』を描きローマ法王ピオ十二世に献上する。 |
1951 | 47歳 | 《ジャック・ウォーナー夫人の肖像》を制作。 |
1952 | 48歳 | ダンテの『神曲』の挿し絵100点を制作。 |
1955 | 51歳 | 『最後の晩餐』制作。 パリ大学、ソルボンヌで『偏執狂的‐批判的方法の現象学的局面』について講演する。 |
1957 | 53歳 | 《ダンス》、弾丸主義と呼ばれる方法で石版画集《ドン・キホーテ》を制作。 |
1958 | 54歳 | 新たにガラと宗教的結婚をする。 |
1962 | 58歳 | 《テトゥアンの大会戦》を制作。 |
1963 | 59歳 | パリで『ミレーの晩鐘の悲劇的神話』を出版。 ニューヨークのノードラー画廊で展覧会。『死んだ兄の肖像』を制作。 |
1964 | 60歳 | 東京、名古屋、京都で回顧展。『天才の日記』刊行。 国王よりイザべラ・ラ・カトリカ大十字勲章を授与される。 |
1967 | 63歳 | 《白鳥=象》を制作する。 |
1968 | 64歳 | 《カルメン》と《サド公爵》の挿絵入り本を出版。 |
1970 | 66歳 | 生地、フィゲラスのダリ劇場美術館着工。 |
1971 | 67歳 | アメリカのクリーヴランドのダリ美術館創設される。 |
1972 | 68歳 | ニューヨークのノドラー画廊で初めて三次元作品の展覧会を開く。 東京で『ダリ版画』展を開催。バルセロナに近い「プボルの館」を妻ガラに贈る。 |
1974 | 70歳 | フィゲラスのダリ劇場美術館開館。 |
1975 | 71歳 | 東京の国立近代美術館で開かれた『シュルレアリスム』展に出品。 |
1977 | 73歳 | 《かたつむりと天使》、《時間のプロフィール》を制作。 |
1978 | 74歳 | ニューヨークの美術館で最初の超立体視絵画『ヴィーナスの誕生をガラに見せるために地中海の皮膚をめくるダリ』を展示する。 |
1979 | 75歳 | パリのポンピドゥ・センターの国立近代美術館でフランス最初の大規模なサルバドール・ダリ回顧展。 |
1980 | 76歳 | 《宇宙象》、《炎の女》など制作。 |
1982 | 78歳 | スペイン国王より大十字勲章を授与される。 妻ガラ死去。ダリはプボルの館で悲歎・憔悴の日々を送る。 |
1984 | 80歳 | 火災に遭い、ダリ全身に火傷を負う。バルセロナの市立病院に入院。 |
1989 | 84歳 | ダリ フィゲラスで死亡。フィゲラスのダリ劇場美術館に埋葬される。 |